つはもの共が夢のあと「古戦場火」
概要
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「古戦場火」
一将功なりて万骨かれし枯野には、燐火とて火のもゆる事あり
是は血のこぼれたる跡よりもえ出る火なりといへり
月の出ない夜、男が道を歩いていると何もないはずの草原にぼんやりと火がともっている。
何かと思って目を凝らすと、2つ3つ増えてゆき、何かを探すように揺らめき、飛び回る。男は気味が悪くなってその場を逃げるように去っていった。
後日、火が舞っていた場所が古い合戦上であったと聞く。あの火は戦で死んでいった侍の無念の魂に違いないと思い、男はその道を通るたびに手を合わせるのであった。
古戦場火はその名の通り古い戦場で見る鬼火の事である。夏になると日本各地で火が舞っているのが目撃され、江戸の怪談を集めた『宿直草』でも「戦場の跡、火燃ゆる事」と題して紹介されている。こちらは大坂夏の陣の跡地で豊臣側の兵士の無念が1.5メートルほどの巨大な鬼火となって出現し、何かを探すように彷徨っていた…という話である。
鳥山石燕はこのような古戦場で見られる鬼火を総称して「古戦場火」と名付けたそう。
人の生きるエネルギーの具現化
人一人生きるエネルギーというのは計り知れないものがある、とたびたび感じることがあります。それこそ夜道を歩いていると、大きなマンションに部屋の明かりがぽつぽつと灯っており、そこには何人かの人が住んでいる。その一人一人に人生あり、それは今現在リアルタイムで更新されていることを想います。私が一人生きているのですら、相当なエネルギーを消費しているというのに、それが何万、何千、何万、何億も存在しているという事実に、なんだか果てしない気持ちになります。
今でこそ科学技術の発展により、人は長い時間をかけて緩慢に生きることが出来ますが、その昔はそうもいかず、一瞬で命を散らす人も多かったのではないでしょうか。
その最たる例が戦争、戦、合戦場。
私たちが80年以上かけて消費するエネルギーを、ほんの数時間のうちに何十人ものひとが消費し、そして消えていった場所。そのエネルギーの残滓が炎となってさまうのが古戦場火ではないでしょうか。
潔い「死」
しかしここで気になるのは古戦場火はただ揺らめき彷徨うばかりで、生きているものに危害を加えることがないという事です。
つまり彼らは自分が死んだことに対して怨念や恨みを持っている訳ではないように思います。ただ主君に仕え、もしくは生きるために、己の命を賭して戦う。そこには恨みや悲しみのようなものはないように感じます。
そこに武士、という者の潔さを感じるのは私だけでしょうか。
古戦場火の事を知った時、学生の頃教科書で読んだ芭蕉の句が思い浮かびました
夏草や つはものどもが 夢の後
古戦場火は何かを得るために戦って、そして散った者たちの最後の命の灯ではないかと思います。
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